岩手県花巻市石鳥谷の時宗 林長山 光林寺です。

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光林寺縁起

開基は一遍上人の弟子 河野通次

山門

光林寺の創立は、鎌倉時代末期の弘安三年(1280)にまでさかのぼります。
この六年前、蒙古軍の襲来(文永の役)があり、光林寺が創立された翌年には二度目の来襲(弘安の役)がありました。
西暦2000年は開基720年にあたっていました。
開基は、奥州稗貫郡の領主で寺林城主だった河野太郎通重の嫡子「河野通次」です。
父親の河野太郎通重は伊予の領主・河野太郎通信の長男通俊の二男にあたります。
河野通次は弘安二年の初夏、京都在番の折り、時宗開祖の一遍上人(1239〜1289)に帰依し、発心して弟子になったと伝えられています。

一遍上人と諸国を遊行

城主妻、城主通重公 開山上人の墓

河野通次が帰依した一遍上人は蒙族河野通広の二男でした。
通次は六波羅探題(朝廷の監視や諸国の政務などを総轄した鎌倉時代の職務)に勤務の折り、一遍上人の辻説法を聞き、帰依したのち、共に信濃の善光寺において阿弥陀如来の慈悲を感得しました。
信州の佐久野では、念仏によって老若の衆生が救われたうれしさのあまり、念仏の声に合わせて喜び、踊り跳ねた様子が「国宝一遍上人聖潤vに描かれています。
そして弘安三年(1280)に江刺郷へとやってきました。

祖父の古墳墓で念仏し寺林へ

城址をとどめる全景

河野通次の祖父は通信といいます。通信は源頼朝の妻政子の妹を妻とし、平家追討に大功を立てた知将として知られていました。のちに奥州遠征にも従っています。
ところが承久の乱(1221)では後鳥羽上皇の側に味方して敗れたことから、奥州の江刺に流されました。
この承久の乱では、河野一族が二分して争い、鎌倉幕府側についた一族が命脈を保ちました。
通次は、江刺の地で祖父通信の古墳墓を訪ね、報恩謝徳のために転経念仏をしたと伝えられています。

本堂

祖父の霊を慰めた一遍上人と通次は、通次の父・通重が城主を務める寺林まで足を延ばしました。(光林寺起史によると)
通重は一遍上人の教えに深く感銘し、息子と同じように帰依しました。さらに領地から寺領として二千町歩(約2000ヘクタール)もの広大な土地を寄進し、六堂伽藍を建立しました。
参考までに、北上市稲瀬町にある下門岡聖(ひじり)塚は昭和四十四年に県の史跡に指定されましたが、この塚が通信古墳墓聖塚として確認されました。

寺の名前は不思議な「光」に由来

本堂内部

弘安四年(1281)春、一遍上人導師のもと信者多数が見守るなか落慶法要が盛大に執り行われました。
その法要の際、西の林よりまぶしい光が現れ、天地を輝かせました。
信者は不思議に思って一遍上人に「あれは何か」とたずねました。
「この光は道場の衆生の念仏信心深ければ、仏陀の来迎に預かるお救いの瑞相なり」
一遍上人はこのように申しました。
このような不思議な光林にあやかり、寺の名前が「光林寺」と命名されたと伝えられています。寺は寺林道場とも呼ばれ、この瑞相が俵石として現存しています。

その後の沿革

浅野長吉の証文 南部利直の証文

室町時代の応永九年(1402)光林寺五代竜天のとき、諸国に一揆が起こり、当寺は兵火にかかり、荘厳な寺宇が焼亡してしまいました。
その後、復興しましたが、十代含受のときに九戸政実の乱が起こりました。
豊臣秀吉から本領安堵の朱印を受けていた信直が秀吉に救援を求めたところ、天正十九年(1591)秀吉は六万ともいわれる大軍を派遣しました。
武将の浅野長吉の下代、浅野六兵衛は当地に陣を張りましたが、家来が粗暴で寺堂は焼き払われてしまいました。
このままでは再興もおぼつかないと苦慮した含受和尚は、伝右衛門という男の仲介で浅野長吉に願い出ました。
浅野は寺領として田畑各一町歩と居屋敷の寄付の証文を授けました。その証文は今も貴重な資料として現存しています。
当寺は盛岡南部藩の藩政のもと、地域の精神的な柱として歩むことになります。
南部氏は十万石の大名となり、盛岡に築城を開始しました。
これ以降、盛岡は城下町として発展し、稗貫郡との交流も盛んになります。当寺は信直の子息利直から七十石の墨印を下賜されています。この証文も現存しています。

由緒ある名刹

寺号勅額

元禄十四年(1701)、当寺十六代円護が総本山遊行四十五代「尊遵上人」となりました。
東山天皇行幸の際、本山に立ち寄った折、勅許により正二位大納言藤原基時郷の御染筆を頂戴しています。
また南部久信よりは、寺門前に下馬札を拝領する旨の公儀が下され、これが所以となり「下馬野」という地名が生まれました。
当寺には現在もこのときの勅額が現存しております。
このように一遍上人と深いかかわりをもつ当寺は鎌倉時代からの歴史を脈々と保つ由緒ある名刹となっています。